目が覚めた瞬間、軽く見当識を失っていた私。ここはどこだっけ?
冷たくて硬い木製の安楽椅子でうつらうつらしていた筈が、いつの間にか妻のベッドの足側で、T字を描くように簡易ベッドが設置されており、その上で目覚めた私。 簡易ベッドに移ったことすら覚えてない。 時刻は午前5時頃。妻と妻の母は既に起きていた。良いご身分ですな私は。 見ると、妻は昨夜の苦難が嘘のように、落ち着いた表情になっている。エピドュラル万歳。 現在の状況を尋ねると、主治医が来るのを待って、今後の予定を決めるという。主治医はもう間もなく来るらしい。医者は早起きですね。大変だ。 とりあえず強張った身体をぐるぐると回し、来るべき時にむけて気合を入れなおそうとする。 昨夜の大騒ぎで天井を突き抜けた私のテンションは、一眠りしたためか地に潜ったらしく。 なんだか今は、ひどく拍子抜けした気分。 猛烈な便意に襲われてトイレに駆け込んだものの、便座の冷たさに驚いて引っ込んでしまった時のような、妙に静謐な気分です。ってもう少しましな喩えは無いのか。 妻のベッドの横にあるディスプレイでは、二本の折れ線グラフが左から右に流れ続けている。上が胎児の心音、下は陣痛の強さを表している。 どちらもなだらかに上下を繰り返しているが、上のグラフの方は、胎児が子宮の中で動くたびに破線となり、しばらくするとまた繋がった線に戻っていく。 今はボリュームが絞られているため、はっきりとしてないけれど、よく耳を澄ませばずくずくと打ち続ける胎児の心音が聞こえるはず。 一夜明けて、少なくとも状況は悪くなってないようだ。と素人判断を根拠に安心する。 妻と妻の母親、三人でとりとめもないことを話しながら、主治医の到着を待つ。 さて、今日産まれることはまず間違いないだろう。何時頃だろう。 主治医はもう間もなく来るというから、早ければ昼前なんてこともあるかもしれない。間違いなく夕方までには終わってるはず。どきどき。 まだ見ぬ我が子の様子を思い浮かべたり沈めたり。 が、主治医はなかなか来ない。6時になり7時になり。 日本の実家にこれからの予定(は未定であること)を伝えようと、携帯電話を片手に病室を出て、廊下を歩いていくと、よその病室からは、きっと私たちが寝ている間に産まれたであろう赤子の「ひぎゃひぎゃ」という泣き声が聞こえてくる。 その、おろしたての声帯が震える音を聞いた途端、涙腺が緩んでしまった自分を発見。おいおい。敏感過ぎないか俺。 というか、他人の子供でこんなになってしまうのなら、自分の子だったらどうなってしまうのだろう。号泣?むせび泣き?横隔膜に変な癖がついてしゃくりあげたりするのだろうか。それは流石に恥ずかしい。 何かこう、事前にシミュレーションをして威厳のある態度を決めておくべきだろう。 思えば、妻に妊娠を告げられたときもそうだった。 格好良いリアクションも、妻の心をわしづかみにするような感動的な一言も言えず、唖然呆然大自然。 口をポカンとあけて毛穴を開き、光合成を始めてしまいそうな勢いで固まるという醜態をさらしたではないか。できれば今回はそのような事態は避けたい。 産まれるまでに、何か良いアイデアを考えておこう。そう心に決めた。 病室に戻ると、まだ主治医は来ていなかった。看護師によれば、我らが主治医は9時から別の患者の帝王切開の手術が入ってるため、間違いなくその前には来るとのこと。なにそれ。9時ってあなた、もう2時間もないよ。そんな簡単に産んでしまえるものなの? 得られる情報はほとんどなく、看護師も自らの考えは滅多に言わないため、1時間先の状況も予測できない。 不安に駆られると、人間は誰しも疑心暗鬼になる。今回、私たちの鬼は主治医に向かった。 ここまで10ヶ月近く診察してくれていた先生。その名はドクター・ヌードルマン。無理矢理訳せば麺男。 いつも笑顔、白衣の襟から白髪交じりの胸毛を覗かせながら、落ち着いた声音で喋る彼。 とても良い人らしいというのは分かるのだが、どうも時間を守らない。 これまで妻とともに診察に行ったとき、時間通りに始まったことは皆無。30分待ちはざら。 病院というのはそういうものだよ、という意見もあるだろうが、数回、他の医師に代理で診察してもらったときには、すべてものの見事に時間通りだったため、どうもその説は取れない。 また、これまで妻が妊娠について抱えていた不安や懸念について尋ねても、「オーケーオーケー。ノープロブレム。何も心配はいらないよ」としか言わないという彼の態度も、私たちの彼に対する不信感がつのる原因であった。まずはその胸毛をしまえと。いやそれは関係ない。 この期に及んで主治医への不信感もないだろうが、不安な状況においては何かを蹴飛ばしたくなるのが人情。イライラし始める。 待っていることに痺れを切らし、状況確認のためナースセンターまで。エクスキューズミー。麺男をずーっとまってるんだけど。 看護師は麺男の名前を聞くと、ちょっと苦笑しながら言う。「あーあの先生はねぇ…。何回もポケベル鳴らしてるんだけど…。まあ良くあることなのよ。大丈夫だから」 良くあることってなんですか。もう一回呼んでみるから、という回答で話を打ち切られ、病室に戻る私。なんだか不安になってきた。 うろうろと動き回れる私とは違い、妻は背中からエヴァンゲリオンのように大事なコードを生やしているため、不用意なことは出来ない。 寝返りひとつ打つにも、看護師を呼んで、手助けしてもらう必要がある。ってことは当然、ひとつの姿勢でいる時間が長くなるわけで。 麻酔で陣痛の痛みは無いとはいえ、ひたすら同じ姿勢で待つ、というのもひとつの苦行。 さらには、妻の身体には点滴と陣痛促進剤の袋も繋がっており、これらが妻の身体を凄い勢いで浮腫ませていく。 手足は水を吸ったスポンジのようにパンパンにふくらみ、手に至っては、もはやグーの形にすることも出来なくなってきた。 不憫な妻。 大体、遅れてのびるんだったら麺男の方だろうに、妻のほうがふやけるというのはどういうことだ。 長い長い待ち時間を過ぎて、9時5分過ぎ。主治医が登場。 「ハーイ、ヤムリンゴー。調子はどうだい?」 見れば分かるでしょう。すっかり汁をすってのびてます。てか、あなた手術は? 私の内心の呟きをよそに、彼は妻の状況を診察。子宮口が1.5cm、子宮の位置はマイナス1cmとのこと。ん?なんか子宮上がってませんか? 「んー。あんまり変わってないねぇ。とりあえず破水させて、様子を見ようか。」 医療器具を取り出す麺男。 妻破水。そして出血。 予想以上の、ってそもそも破水を見るのも初体験なので、予想も糞もないのだが、意外な程の出血量に驚く私。でも妻の視界からは見えないらしいので、動揺させないように黙っておく。破水ってこういうものなのだろうか?破血って感じだ。 「さてさて…。じゃあまた見に来るよ」 来たと思ったら即座に退場する麺男。えええ。そうなの?いや、あなたに帝王切開の手術が待ってるのは分かるけど。破水させてから他の患者の手術ってあるの?てか、あなたその手術にも遅刻してるみたいですが。 クエスチョンだけが増えていき、いまひとつ流れが見えないまま、また、まんじりともせずに待つ時間が始まる。 <つづく> |
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